古河公方公園

古河総合公園

公園外から流れ込む小川が水と共に人々を引き込む【古河公方公園】は、台地や湿地、平地林などに代表される、古河の地形を集約したような場所にございます。 大きな沼や蓮池を含む25万㎡の広大な総合公園で、春には美しい紅白の花が咲く1,500本以上もの桃林、初夏の水面には2000年以上前の太古から蘇った大賀ハス(古代ハス)が水面に大輪を咲かせます。また民家園もあり、藁葺き屋根の古民家を見学することもできます。2003年にはユネスコとギリシャが主催し、世界の主要な文化景観の保護と管理を目的とした顕著な活動に対して功績をたたえる「メリナ・メルクーリ国際賞」を日本で初めて受賞しました。

お勧めのポイント

見どころ

公園エントランスの管理施設の林立する柱の間を抜ける様は、文字通り林の中を抜けていく感覚、公園外から流れ込む小川は水と共に人々を引き込みます。

江戸時代初期、古河城主土井利勝(どいとしかつ)が、江戸で家臣の子供たちに桃の種を拾い集めさせ、古河に送って農民に育てさせたのが始まりです、領地では、燃料となる薪が乏しかったので、成長が早く、果実が食料となる桃が選ばれました。明治時代には、花見シーズンに臨時列車が運行されるほど賑わいました。古河市では開園を機に、花桃(花を観賞するための桃)を植えて桃林を復活させました。

鎌倉公方足利成氏(あしかがしげうじ)は、1455年古河に移り、この台地に館を構えました。以降、「古河公方」と呼ばれ、五代にわたり約130年間、関東に一大勢力を誇りました。古河公方館趾の石碑の東西には、当時の堀と土塁が、跡をとどめています。 周囲を沼に囲まれたイヌシデやコナラを主体とした雑木林には、水面に反射した光が、明るく差し込みます。 早春にはアカゲラの木をつつく音がこだまし、夏には緑陰を楽しむ人が訪れ、紅葉の頃にはサクサクと落ち葉をふみしめる音が小気味よく響きます。

利根川と渡良瀬川の合流するあたりには、かつてたくさんの沼がありました。そのひとつが御所沼です。この名前は、沼の畔に古河公方が館をかまえたことに由来します。戦前、沼で採れたジュンサイは、東京の料亭に出荷されました。昭和25年に水田へと埋め立てられましたが、沼の復元で、土の中のジュンサイの種が目覚めて復活しました。カルガモやカワセミが生息する他、カイツブリやオオバン等の渡り鳥も飛来します。また、水面に映る夕焼けは絶景です。(※)現在ジュンサイは確認できておりません。

南北に面したガラス窓をスライドさせると、オープンカフェになり、建物と周囲の景色が溶け込むようにデザインされています。南側の雪華園は、人と自然の無限のからみあいから生成される様子を伝えます。

かつて公方様の森にあった小さな天神の祠をしのんで、名付けられました。
公方様の森側のコンクリートで支えらた桁橋、広場側のケーブルで吊られた斜張橋、両方に乗りかかったシルバーの中央部分と、三つの構造を使って作られています。

公方公園のランドマークです。浅間山や赤城山など関東平野をふちどる名峰を眺められるように、御所沼を復元したときの残土を積み上げて作られました。芝すべりのスポットとして、子どもたちに大人気です。

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エントランス(正面入口)

公園エントランスの管理施設の林立する柱の間を抜ける様は、文字通り林の中を抜けていく感覚、公園外から流れ込む小川は水と共に人々を引き込みます。

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桃林の由来

江戸時代初期、古河城主土井利勝(どいとしかつ)が、江戸で家臣の子供たちに桃の種を拾い集めさせ、古河に送って農民に育てさせたのが始まりです、領地では、燃料となる薪が乏しかったので、成長が早く、果実が食料となる桃が選ばれました。明治時代には、花見シーズンに臨時列車が運行されるほど賑わいました。古河市では開園を機に、花桃(花を観賞するための桃)を植えて桃林を復活させました。

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公方様の森

鎌倉公方足利成氏(あしかがしげうじ)は、1455年古河に移り、この台地に館を構えました。以降、「古河公方」と呼ばれ、五代にわたり約130年間、関東に一大勢力を誇りました。古河公方館趾の石碑の東西には、当時の堀と土塁が、跡をとどめています。 周囲を沼に囲まれたイヌシデやコナラを主体とした雑木林には、水面に反射した光が、明るく差し込みます。 早春にはアカゲラの木をつつく音がこだまし、夏には緑陰を楽しむ人が訪れ、紅葉の頃にはサクサクと落ち葉をふみしめる音が小気味よく響きます。

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御所沼

利根川と渡良瀬川の合流するあたりには、かつてたくさんの沼がありました。そのひとつが御所沼です。この名前は、沼の畔に古河公方が館をかまえたことに由来します。
戦前、沼で採れたジュンサイは、東京の料亭に出荷されました。昭和25年に水田へと埋め立てられましたが、沼の復元で、土の中のジュンサイの種が目覚めて復活しました。カルガモやカワセミが生息する他、カイツブリやオオバン等の渡り鳥も飛来します。また、水面に映る夕焼けは絶景です。(※)現在ジュンサイは確認できておりません。

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ジェラテリアと雪華園

南北に面したガラス窓をスライドさせると、オープンカフェになり、建物と周囲の景色が溶け込むようにデザインされています。 南側の雪華園は、人と自然の無限のからみあいから生成される様子を伝えます。

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天神橋

かつて公方様の森にあった小さな天神の祠をしのんで、名付けられました。
公方様の森側のコンクリートで支えらた桁橋、広場側のケーブルで吊られた斜張橋、両方に乗りかかったシルバーの中央部分と、三つの構造を使って作られています。

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富士見塚

公方公園のランドマークです。浅間山や赤城山など関東平野をふちどる名峰を眺められるように、御所沼を復元したときの残土を積み上げて作られました。芝すべりのスポットとして、子どもたちに大人気です。

地名碑

地名碑の解説

ホッツケ田については、この地名碑に「旧御所沼の水辺に葦を分けて細々と稲を育てる。ホッツケ田と言う。これにならって称す。」とその由来が刻まれています。
ホッツケ田とは、湖沼を新田開拓し作られた水田のことで、掘り下げた土を盛って高くした場所を水田に利用しました。このような水田を「掘り上げ田」と言い、御所沼ではほっつけ(堀付け)田と言いました。このホッツケ田は干拓以前までつくられていたとのことです。御所沼の谷戸は冠水被害の多発地帯でその労苦に見合った収穫が確約される訳ではなかったのです。
このホッツケ田の復元により、親子で参加のどろんこクラブが生まれました。どろんこクラブは田植え、稲刈り、脱穀、古民家での炊飯まで一年を通して米作りを学び、流しそうめん、案山子づくり、餅つき大会などを自ら企画運営して、互いの親睦を深めるコミュニティが生まれたのです。どろんこクラブとして米作りの活動は今でも続いているが講座型の一年完結型の活動です。講座型のどろんこクラブから公園を活動拠点とする自自主グループのコミュニティが数多く巣立つことを願っています。
そんなホッツケ田の米作りは、御所沼の辺りに典型的な里山の四季の風景をつくり、散策者の目を楽しませています。

「相の谷橋」については、その地名碑に「旧御所沼最深部の小字名を借りて往時の景観をしのぶ。」とその由来が刻まれています。
相の谷の由来については、明治16年測量の迅速測図を見ると地図の表記から御所沼の最深部であることが分かります。また、「相の谷」という小字名の「相」は、すがた、ありさまと言う意味からすれば谷状の土地と言った意味であろうか。つまり相の谷は、北から牧野地台地、中山台地、古城跡台地、駒ケ崎台地、新久田台地に囲まれた谷状の沼であったことがそのまま小字名となったと言うことであろう。
そんな旧御所沼の最深部に架けられた相の谷橋は、全長30m、橋の高さは水面から1.2m、天神橋とは対照的に御所沼の水面を間直に感じることが出来ます。そして橋の上からは、東に御所沼の豊かな水の世界を眺めることが出来ます。西側は、入江状の水面が広がり、もぐっちょの入江と名付けられており、その名のとおりもぐっちょ、即ち、カイツブリの姿を見かけることがあります。
相の谷橋は四季を通して多彩な御所沼の風景を見せてくれるが、とりわけ、2月3月の季節風は、遮るものがなく風の通り道である。湖面を白波立て吹き抜けるさまは、古河が風の街であることを再認させてくれます。

「水鶏坂」については、地名碑の裏面に「野の末に清き沼辺にいつの日か水鶏のたたく声ぞ聴かまし。祈って名づく。」と短歌を添えた由来が刻まれています。
水鶏坂は、公方様の森の沿った坂道です。坂下には御所沼を見晴らすように大榎が大きく枝を張り、春先には「御所の梅林」の梅の香が漂い、坂を上がりきると、茅葺屋根の堂々とした中山家住宅が迎えてくれます。
風景学の提唱者である中村良夫東工大名誉教授に尋ねると、渡良瀬川の土手際の湿地では水鶏が生息しているという。ならば、水鶏の声を御所沼でも聴いてみたいと期待を込めたという。また、徒然草の「水鶏の叩くなど、心細からぬかは」に思うところあり、御所沼でも下る坂道を水鶏坂と名付け、歌を添えたとのことです。
中村教授はモダンな東京青山生まれで、戦中戦後、田舎町の古河に疎開し10年間を過ごし、御所沼は少年期の記憶の中にあったと言う。碑に刻まれた歌は、水鶏の鳴き声に不安を覚えた古人の心情に共感した疎開者の郷愁の歌なのかもしれません。
古人が水鶏の鳴き声を「水鶏たたく」と形容してきた水鶏は、夕方から夜に「クォンクォンクォン・・・」と鳴き続けるという。夜の訪問者の水鶏の鳴き声を御所沼の湖畔で何に聞こえるか聴いてみたいみたいものです。

「仙人池」については、地名碑に「池畔に立って見渡せば桃花流水嫣然として去り、御所の森を成す。さながら仙境のごとし。」と、その由来が刻まれています。
仙人池の由来の「桃花流水宛然として去り」から、水源の背後には桃花源記に書かれた桃源郷の存在を暗示させ、また、御所沼で隔絶された御所の森が翆にかすむさまを深山に見立てるなど、文人たちが憧れた仙境を夢想する世界を想像させます。
ところで、仙人池は、こぶし野に面してつくられた小さな池で、御所沼から汲み上げられた水は北側の小高い「やまぶき山」の池に汲み上げられて、その池を水源として「ほろほろ滝」となって仙人池に流れ込みます。そして、仙人池の水は遺水のように景色をつくる「ザラメキ川」を流れ御所沼に戻ります。この水の循環は、御所沼に酸素を供給するエアーレイション装置でもあり、その水の循環が水音と共に風景に静けさと動きをつくり出しています。
仙人池では、カワセミが時にはダイビングして獲物を捕らえます。また、夏には多くのトンボが舞い、ギンヤンマやウチワヤンマが水面を滑空する様を見かけます。
子供たちは、仙人池から流れ出るザラメキ川に木の葉を小舟に見立てて遊んでいる様子をよく見かけます。

「ラン塔の泉」については、「当地の牧野地側にあった小字名「ラン塔裏」を借りて泉の名となす」とその由来が地名碑に刻まれています。とその由来が地名碑に刻まれています。
ラン塔の泉は、菖蒲田の北側に位置するラン塔池に注ぐ泉である。泉は、実は井戸水としぼり水で、湧き口は、石組の隙間から湧き出るかの様に造られており、その付近には、クレソンが繁茂しています。
池には、人慣れした鯉が回遊し、来園者を楽しませています。また、池の水面はトンボが滑空し、休日ともなれば、網を持った少年たちの絶好の遊び場である。
ところで、小字名に使われているラントウとは、塔身が卵形をした禅僧の墓のことで中国から鎌倉時代に禅宋と共に入ってきたと言われており、無縫塔とも言います。後に墓地のことを卵塔場とも言うようになるが、この卵形のデザインは、卵生神話と関係があるかはわからないが、仏教の宇宙観から来ていると言われており、すべてをつなぎ合わせると最終的には卵のような形になるという仏教の思想をお墓で再現したと言われています。
卵塔とは墓石のことであるが、仏教の宇宙観を表している形であると考えると、深遠な智の宇宙の縁から湧き出るラン塔の泉は、何ともありがたい泉であると、私には思えてくるのである。

「目洗弁天池」については、その地名碑に「虚空蔵堂下の御手洗池(おみたらせいけ)で目をすすげば眼病が癒えると伝えられた。人々は平癒の暁には うなぎを放して謝したという。」とその由来が刻まれています。
御手洗池からは地下水がこんこんと湧いていたと言う。そのきれいな湧水で眼をすすげば眼病が癒えたのかもしれません。
目洗弁天池に祀られた石仏は、鳳桐寺のご住職によると、虚空蔵堂の御本尊を写した虚空蔵菩薩であるとのことでした。そのお姿は、右手に鰻、左手に蓮華を持っています。文化の年号が刻まれていることから約200年前に作られたことが分かります。
ところで、鰻は虚空蔵さまの化身とも言われ、虚空蔵菩薩を祀る地域では、鰻を食べない風習があり、洪水や水害の多発地帯と言う共通点があります。まさに御所沼は渡良瀬川の後背湿地で水害の多発地帯であり、虚空蔵さまのある鴻巣の人は鰻を食べない風習があったようなことを聞きました。
目洗弁天池周辺には、秋の彼岸の頃、真紅の彼岸花が一面に咲きます。別名、曼殊沙華は天界の花のことで、群生して咲くさまは、一種独特の気が支配します。

「おみたらせの清水」については、地名碑に「おみたらせから流れ出す清水ゆえに称す。」とその由来が刻まれています。おみたらせの清水は「おみたらせの池」即ち「目洗弁天池」を水源とする小川で、流末は御所沼に流れ込みます。現在の目洗弁天池は、多少の湧水もあると思うが、多くは中山台かの泉
からの分流水によって賄われています。
もうだいぶ昔、小学生の頃の記憶であるが、古河地方の方言で「いずんぼ」という灌漑用の小さな池が水田の中にありました。水深はせいぜい1m程度かと思うのですが、その池を覗くと地下水がこんこんと湧きでているのが目でも確認でき、タナゴ、ドジョウ、エビガニ、ゲンゴロウなどの水生生物が多数生息しており、さながら淡水のアクワリウムのようでした。恐らく、おみたらせの池も、多くの水生生物に鰻も生息する「いずんぼ」のような豊かな湧水池であったろうと想像するのです。そのような清らかな水を水源とする小川を「おみたらせの清水」としてイメージして頂けなければとおもいます。
春、おみたらせの清水の周囲は、菜の花が咲き、華やいだ桃の花に覆われ、桃まつりの花見客の祭気分を一気に盛り上げてくれます。また、秋の彼岸残りには、緋色の曼殊沙華が見事に咲きます。」

「史蹟古河公方館址」については、その地名碑の裏面に「ここは古河公方足利成氏在城当時よりの別館、鴻之巣御所址にして東西に長き半島形をなし御所沼に突出し今なお前後二ケ所に空堀を存して当時の要害を忍ばしむ。五代公方義氏薨去の後息女氏女ここに住し寛永年中その孫尊信野州喜連川に移るに及び遂に廃城とはなれり。昭和8年7月18日茨城県知事より史蹟として指定せらる。昭和8年7月吉祥日茨城県古河史蹟保存協会 千賀覚次 識 永井益雄 書 石康 刀」と刻まれています。なお、「史蹟 古河公方館址」の刻字は、貴族院勅選議員の小久保喜七が揮毫したのです。
この史蹟は、古河公方に関して、徳源院跡と共に県指定史跡に指定された折に設置されたもので、古河では最初の県指定の史跡になります。当時は、御所沼干拓前であったので、古河公方館址の周囲は公方時代に近い形で御所沼が大きく広がり、空堀の跡も2ケ所その原型に近いかたちをとどめていました。
また、明治、大正、昭和という日本の近代史を駆け抜けた自由民権運動の政治家・小久保喜七が揮毫した刻字であり、学校教育や郷土史などの社会教育に貢献されたと言うことで旧古河最初の名誉市民となった千賀覚次氏による噀文と言うことでも意味深いものがあります。

「徳源院趾参道」の地名碑については、裏面に「大正15年10月墓地整理記念」と古河町の3名が、側面に鴻巣村の2名の名前が刻まれています。なお、現在の碑の場所は、公園整備により、当初の場所より道に沿って約30m北に移っています。
徳源院は、臨済宗・鎌倉円覚寺末。永仙院、松月院とともに古河公方が開基した三カ院のひとつで、当初は第三代高基正室の法号「瑞雲院」と称し、次に第四代晴氏正室の「芳春院」、最後に第五代義氏の娘・氏姫の「徳源院」と変遷したとみられています。江戸時代後期は無住寺の状態が続き、明治初期には廃寺となったとあるが、明治16年の測量図には、まだ仏堂らしき建物が表記されています。大正末には墓地整理されて、古河公方関連史蹟として、昭和8年、茨城県指定文化財の指定を経て、現在は古河公方公園の中にあります。徳源院跡には、義氏の墓と言われる盛土、氏姫の墓と言われる小さな宝篋印塔、義親の大きな宝篋印塔と七地蔵を刻んだ石幢、そして無縫塔などが北側に十数基配置されています。
徳源院は、院号の変遷からしても分かるように、公方ゆかりの女性たちの霊の眠る処である。春、その徳源の周りは、一面に桃が咲き、そこに雅に着飾った高貴な女性たちの姿を重ねると公園の桃林が殊のほか華やいで見えてくるのです。

富士見塚については、その地名碑に「夕映えの影冨士を見るべしと善男善女つどう。虚空蔵堂境内の冨士講塚に因んで名づく。」とその由来が刻まれています。
富士見塚は、平成2年、公園の南西隅のトンボ池を試掘した際の土を中山台に盛り上げて築いた塚で、高さは渡良瀬川の堤防と同じ標高22m、浅間山、そして、赤城、妙義、榛名の上毛三山、北側には日光連山を、そして東に筑波を望むべく築かれたのです。現在は木々も大きく育ち、冨士を望むことも出来ないが、富士見塚に上がれば、公園の緑や水の大地が、そのまま外回りに繋がり、さらにずーっと地平にのびた台地がめくれあがって蒼穹をなし、天と地開かれた風景を堪能することができます。子どもたちは頂上に上り、時には雄叫びをあげ、斜面を駆けまわり芝滑りに興じるなど無限の体力をいかんなく発揮しています。そして、冬、雪がふれば、ソリすべりに興じる親子が現れ、元旦には祝日を拝する人が集まります。公園のほぼ中央にそびえる富士見塚は、既に、市民の記憶においても風景の上でも公園のシンボル的存在となっているように思います。
ところで、虚空蔵堂境内の冨士見講塚とは、古河市史には、虚空蔵菩薩前古墳と古墳名がつけられ、「墳丘は径20~30m程度の円墳状を呈している。中世の塚の可能性もあるが、一応、古墳と考えておくことにする。」と記されています。

「愛宕川」については、その地名碑に「水源地帯の小字名「愛宕下」の名を惜しんでここに残す。」とその由来が刻まれています。」
小字名の愛宕下とは、鷹見泉石の鴻巣村絵図には愛宕下の小字名付近に愛宕宮があったことが記載されています。明治には村内の香取神社に合祀されたとのことで、その場所に今はないが、小字名の愛宕下は愛宕宮があったことを示すものである。
愛宕宮とは、主祭神のカグツチ尊は、母を焼き殺して生まれてきた「仇子」であり、転じて「愛宕」になったとのことで、愛宕は、火に由来することから火状の神する愛宕信仰が江戸時代に全国にひろがったようである。
愛宕川は、元は御所沼干拓地の排水路として整備されたものを御所沼復元にあたり改修したもので、都市下水も流入しているので、御所沼の外側を迂回するように流しています。従って、公園内の上流部の水は、かなり濁ってはいるが、新久田橋付近まで流れ来るころには、礫間浄化により清流のような流れになっています。
愛宕川は、春、桜が咲き草萌える日和山の裾をゆったりと流れるさまは唱歌「春の小川」の晴れやかさを、晩秋の夕暮れ、桜山付近から夕日に輝き蛇行するさまは唱歌「赤とんぼ」のものさびしさを連想させるものがあります。

「こぶし野」については、地名碑に「春浅く、一隅のこぶし咲き出ず。春雪繽粉として枯野に舞うが如し。一幅の絵なり。号して以て賛と成さん。」とその由来が刻まれています。
こぶし野は御所沼の一部であった。戦後すぐに、食糧難のため干拓されて水田となった。1970年に公園が都市計画決定され、渡良瀬遊水地の掘削土で埋め立てられた。1989年の計画の見直しにより現在のような広場が整備され、その一隅にこぶしが一本植えられて、こぶし野と命名されたのです。
こぶし野は、春草席なるモダンデザインんも四阿・フォーリエが風景にアクセントを添え、御所沼、仙人池、小さな滝、さらさらと流れる小川、小高い丘や木々などが囲む心地よい広さの広場である。そんなヒューマンスケールの広場は小家族のピクニックや一人散策する人を心地よく迎入れているように思えます。
コブシの木春一番に白い花をつけ、ヒット曲「北国の春」がまず浮かぶが、農作業の指標にもなり、春が来たと知らせてくれる里山を代表する樹木です。また、樹高20mもの巨木になるという。その巨木の梢いっぱいに純白の花をつけ、春雪繽粉として枯野に舞うが如く早春の風に白い花びらが舞う様を想像しただけでもこころ浮かれます。

雪華園は、ジェラテリア周辺の庭園のことで、古河藩主土井利位の雪の研究書「雪華図説」から名付けられました。
この雪華園は、「乾坤八相の庭」とも言われ、人間と自然の複雑な関係の姿を八景にまとめたもので、公園全体の景観整備の重要な考え方でもあります。

  • 第1景は、「復元の景」。消滅した自然を人の英知によって取り戻した御所沼のことです。御所沼の復元により、古河公方時代の歴史的空間を追体験できるようになりました。
  • 第2景は、「自然保護の景」。御所沼に囲まれた古河公方館跡の森、人が生活に利活用するために管理してきた雑木林のことで、子どもたちには虫取りなど、親しみのある自然でもあります。
  • 第3景は、「農の景」、茶畑や水田、雪華園にも小さな円形の畑があります。田や畑の広がる農の風景は、日本人がふるさとをイメージする原風景でもあります。
  • 第4景は、「園芸の景」、ジェラテリアの庭の仕立物の松など、人間が思い描く理想の自然像のことです。
  • 第5景は、「自然への対峙景」。鉄の橋の天神橋や雪華園につくられた片岡崩しの庭など、人間が文系活動のために自然の中に造りだした造形のことです。
  • 第6景は、「自然の侵犯景」。草木に埋もれた古河公方の遺跡など、人の手から離れた人間界の家屋敷や田畑には、すぎさま自然界が乱入し野生に帰ろうとします。雪華園の一隅に造られた廃墟風の庭は、野生が人の痕跡を呑み込む自然の侵犯景のことです。
  • 第7景は、「詩的感興の景」。園内に地名をつけることで、無名の地に地名と言う言葉を与えると、意味ある場所として風景に物語が生まれ、新たな風景が立ち上がる。言わば、言葉により、風景をデザインすることであります。
  • 第8景は、「虚像の景」。パークカフェの建築の構えの中で風景は屈折し分散する幻影の自然のことです。

以上、自然と人との多様なからみあいを象徴化した乾坤八相の庭「雪華園」の地名碑についてご紹介させていただきました。

「古河公方広場」と「二入川」については、地名碑に「康生元年1455年足利成氏は鎌倉より古河に移り古河公方と称し、この地に館を設けたと言う。古河公方は、五代義氏で終わるが、その娘の氏女(うじひめ)は逢方(ほうぼう)の森の中に鴻巣御所を営んだ。この小川は上流の小字名に因んで二入川という。」とその由来が刻まれています。

古河公方公園は、昭和40年代、日本の高度成長期で古河市も人口が急増して、古河公方の史跡付近にも宅地開発が進み、日本の歴史上からも重要な史跡を保護する必要性に迫られたことが切掛けで構想された公園である。ゆえに公園正面のエントランス広場を古河公方広場と名付けたのです。

また、「二入川」とは上流が二股に分かれた小川となっていたことから、小字名「二入」となったと思われます。現在の二入川は御所沼の水を汲み上げて循環し、公方広場を流れ、管理棟を貫き、御所沼に流れ落ちる小川のことで、御所沼の水質改善のためのエアーレーション装置でもあります。

この古河公方広場が最も華やぐのは桜咲く時期です。両側の石垣に植えられたソメイヨシノが広場を覆うように咲き、広場の紅枝垂れ桜がさらに華やぎを添える。そして、二入り川は春の光を放ちながら流れ、晴れやかに来園者を迎えてくれます。

御所沼については、その地名碑に「古河公方の館の周りに広がるこの沼は御所沼と呼ばれていた。昭和26年水田として埋め立てられたが、公園事業により平成7年春、復元された。」とその由来が刻まれています。

御所沼とは、鎌倉公方足利成氏が1455年に鎌倉から古河に移り初代古河公方となり、現在の古河公方館跡に鴻巣御所を構えた。以後、古河公方とその子孫たちが、175年間鴻巣御所を使用した。その鴻巣御所の周囲に広がる沼を何時の頃からか御所沼と呼ぶようになりました。その様な背景を持つ御所沼の復元には、都市下水路が幾筋も流れこむ地形上の特質から沼の水質保持という課題もあり、一時は沼をつくることを断念して予定地を渡良瀬遊水地の残土で埋めてしまったのです。そんな紆余曲折を経て、当初の基本構想とのズレを修正するために、平成元年に「基本計画見直し委員会」が開催され、その委員会で「歴史の山河こそが文化遺産なのです。御所沼はやはり復元しましょう。それはふるさとの魂です。」との景観工学者の中村良夫東工大教授の発言により、古河の原点とも言える古河公方の歴史的空間を蘇らせるべく御所沼復元が決定されたのです。そして、平成7年に都市下水路を迂回させ、蘇る湧水と雨水により満々と水を湛えた御所沼が復元されたのです。従って御所沼を含む歴史的地相空間は古河公方公園の核心部であり、ふるさと古河の魂として復元されたのです。

古河公方公園は、2003年に、ユネスコとギリシャ政府が主催する文化景観の保護とマネージメントに関するメリナメルクーリ国際賞を受賞しました。受賞を理由は、東京近郊にあり開発圧力に耐えたとの総括評価のほか、御所沼の復元による自然と歴史空間の再生、自然と人間とのかかわりを表現したデザイン、四季折々の自然に親しむ市民の営みの3点が高く評価されました。なお、審査に当たっては、25か国エントリーして、前例なく全会一致で古河に決定したとのことです。                   古河市は、受賞の栄誉と責任を記憶にとどめるために、公園の正面道路にギリシャの文化大臣で女優のメリナ・メルクーリ女史の名を冠することをユネスコ本部での受賞式表明し、この受賞記念の地名碑は建設されました。約300mのメリナ・メルクーリの小径は、春の絢爛たる桜並木や市民が育てるアダプト花壇の四季折々の花々と、まさに公園へ通じる花の散歩道になっております。時には、メルナ・メルクーリの小径をゆったりと散策して頂くことを願って、「メリナ・メルクーリの小径」の地名碑の紹介とさせていただきました。

「茱萸坂」については、その地名碑に「坂下に、ナワシログミ、アキグミ、群生す。野趣掬うべし、以て名づく。」と其の由来が刻まれています。
茱萸坂は、新久田道沿いに、茱萸の群生地があり、其の群生地に沿ってホッツケ田に降りる坂道である。坂上から眺めると、ホッツケ田の先に御所沼が広がり、ゆたかな里山の景色を楽しむことができます。
ナワシログミはホッツケ田でどろんこクラブが田植えをする頃に俵型のルビー状の透きとおった赤い実がたわわに実ります。ナワシログミの語源はまさに田植えの頃にみのる茱萸と言う意味です。また、アキグミは名の通り秋の10月から11月頃、丸い小さな赤い実をつけます。ちなみに、茱萸の仲間は、根に共生菌類を持ち、空中窒素を固定し、荒れ地でも生育できます。茱萸は鳥が好んで食べるので、思わぬところに茱萸の木が生えることがあり、少し離れた通称ガラパゴス島にも鳥に運ばれた種が発芽した大きな茱萸の木が繁茂しています。生命力の強い樹木と言えます。
ナワシログミを食レポすれば、口に含むとほの甘く渋みが勝って口がおちょぼ口になります。数年前であったが、高齢のご夫婦がナワシログミを一つ摘んで「渋いですね」と笑みを浮かべ懐かしそうに味わっていました。

「中山の小川」については、地名碑に「旧小字「中山」の中央を流れる小川なり、よってかく称す」とその由来が刻まれています。小字名「中山は、昭和24年の御所沼の開拓までは、沼に囲まれた舌状台地でした。また、鷹見泉石の、村絵図によると、龍樹院があり、その一角に虚空蔵堂、そして、その西に雀明神社と神明宮がありました。」現在の中山の台地には、公園外ではあるが虚空蔵堂と富士塚、道際に県指定文化財木造地蔵菩薩坐像が安置されたお堂があります。公園内には、御所沼の掘削土で造成された富士見塚があり、富士見塚を巡るように「中山の小川」が流れています。この中山の小川は、「中山の泉」から西へ蛇行し、明神の滝を下り、孔雀小屋の前の池を経由して、柳の井から御所沼に流れ込みます。                            中山の泉は、深井戸から汲み上げられる水で、中山の小川は、日本庭園の遺水のような景色をつくり、子どもたちが安全に水遊びを楽しめる小川となっています。飲み水ほどではないが、水がきれいで家族連れには安全な水遊び場として人気を博しています。

天神橋は、公園から望める新三国橋や高層ビルなどと呼応する近代的デザインの橋で、公園のランドマーク的存在となっています。
地名碑の裏には、「藩政時代、この公方様の森の中に天神の祠あり、その面影を慕って名づけた。」とその由来が刻まれています。
江戸時代の古河の歴史書「古河志」によると、「公方様の森は十念寺の境内地であり、住職のはなしとして、境内南方に 天神松と言う古木あり、昔 御所住居の程は 殊に 賞愛せられし由」とあります。
天神と言えば、菅原道真公のことで、学問の神として、また、子どもの守り神として慕われていました。昔、御所を住居としていたのは、5代古河公方足利利義氏の子・氏姫であり、母として、子・義親に対する想いを考えると、子のために天神の祠を建て、立派な松の木を植えたものと想像し、その後、古河公方の末裔が、喜連川に移り、御所跡は、天領から十念寺の境内地となりました。
そんな時のうつろいの中で、天神の祠は朽ち果て、天神松がその名残をとどめたと言うことであろう。そんな失われた天神の祠の面影を慕って、御所沼に架かる橋を天神橋と名付けたということです。

新久田道については、地名碑に「旧新久田村へ通ずる野道なり、沼に沿いて森かげを行けば 懐旧の情、にわかに生ず」とその由来が刻まれています。
古河公方公園には、柵は一部しかなく、周囲に開かれて公園です。従って、公園の入り口は四方あります。
東からのパークフロントの広大な駐車場を持つメインアプローチのほか、西からの牧野地口、北からの十念寺道に通じる北口、そして、南から新久田道に通じる新久田口があります。
この新久田道は、駒ケ崎の森の外周をぐるりと回って、新久田橋を渡り、御所沼沿いに、東に向かい、ツツジ山を過ぎ、日和山に向かう椿橋までです。この御所沼に沿った園路は、常連さんたちの規定の散策コースになっています。
この園路沿いは里山の懐かしい四季の風景が見られます。とりわけ、新久田道が一番輝くのは、ススキの穂が、赤みを帯び、白く毛羽立つまでの期間で、艶やかな銀糸のように輝き 微風にも波打つように揺れ動くとき、身近に見られるススキ道は秋らしい季節の彩りを市民生活に添えてくれます。

「立崎野」については、地名碑に「立崎は渡良瀬川大改修(大正時代)に滅びし古河城本丸と運命を共にした村名なり、この小さき言葉ここに遺して郷土史の大本を心に銘す」とその由来が刻まれています。
立崎は、古河城の南端に位置し、古河公方時代まではと公方祈願寺・徳星寺が併置していたと思われます。その後、幕藩時代は、立崎廓と頼政として整備され、頼政神社のほか、時代にもよるが、家臣の屋敷や長屋、米蔵などの他、頼政神社別当の屋敷がありました。明治になって廃城となり、立崎村となったが、半世紀も経ずして、渡良瀬川大改修により、立崎村は河川敷に取り込まれ消滅したのです。
その渡良瀬川大改修とは、古河城の主要部分を削り、蛇行する川に挟まれた伊賀袋を切り離して、河道を改修する工事で、あの足尾鉱毒事件が社会問題化して影響を与えた渡良瀬遊水地と一体の治水事業でした。その意味では、この地名碑は、治水事業の犠牲となって消滅した立崎村への鎮魂の碑でもあります。
立崎野は、今、御所沼の干拓史を伝える排水ポンプと水門が保存され、ヨシキリが囀る葦原となっています。江戸時代の古地図にも立崎の水際は葦原となっており、当時の姿もかくあんなりと思うのです。

鴻巣の一本大榎については、地名碑に「鴻巣村の遺風を伝える大榎、御所の森に亭々と枝を張る。その後、恬淡として哲人に似たり」とその由来が刻まれています。この大榎の樹齢は定かではない。幕末までには、ここに十念寺があり、熊野権現も祀られていたと、鷹見泉石による鴻巣村絵図に書かれています。そんな土地の返還を見守ってきた鴻巣の一本榎、この榎が「榎の僧正」のように切り倒されず、今、恬淡として哲人に似たり」を祝したいと思います。
榎は、一里塚に多く使われてきた樹木であり、根張の美しさも見事で、巨樹化することで、多くの神社で御神木としても祀られています。
鴻巣の一本榎は、幹回り3.45m、葉張32m、樹高約19m、枝は高さ3m付近で八方に分かれ、みな幹のように太く、開けた場所であれば、コマーシャルで有名なモンキーポッドのように一本の木で森を作れる樹種です。
もう十数年前であるが、S氏が、この機を眺めて「ツリーハウスを作りたい」と呟いた。即座に頷いた。あの太く伸びた枝の上にツリーハウスがあったらと想像する。トムソーヤになった少年は夢心地あろう。

「牧野地道」については、地名碑に「旧牧野地村に向かう小径なり、香取神社、鬱蒼として、桃下麦青の果てに浮く。」とその由来が刻まれています。
この牧野地道は、公園の牧野地口に通じる園路で、大賀ハスなどの湿性植物園を一望し、芝生広場の屋外ステージの背後を通り、神明道や正面入り口に通じる公園のメインストリートの御所沼道とつながっています。そのルートは、牧野地村と鴻巣村を結ぶ昔からの道をなぞるようにつくられています。
牧野地は、鷹見泉石の牧野地村絵図によると、村の周囲は御所沼や古河城の外濠などの沼に囲まれた景勝地で、集落の周りに桃花麦青の畑地が広がり、古河公方ゆかりの松月院や御所塚、鳳桐寺の他、香取社や神明社が配されていました。
現在は、松月院の小高い丘は渡良瀬川改修工事の土取り場となり消滅し、神明社は香取神社に合祀され国道が分断し香取神社の鬱蒼とした社は失われたが、御所塚や鳳桐寺は昔ながらの落ち着いた佇まいを見せています。
牧野地は、古代から多くの歴史が刻まれた土地で平成22年には、御所沼に面した川戸台から東日本で最大級と言われる古代の製鉄所跡が発見されるなど、その歴史重要度は益々大きくなっています。

「トラエモン道」については、当地の牧野地側に「トラエモン」を使った小字名があり、そのトラエモンを借りて名付けたとのことである。
古河歴史博物館紀要「泉石」第4号によると、明治18年の土地利用図では屋敷林を持つ家があり、その家が名主の虎右衛門態邸で、その名主のカタカナ表記がトラエモン前とトラエモン裏の小字名になったようである。
トラエモン道は、牧野地道から菖蒲田の西側に沿った北に向かう園路である。その園路の西側が1975年ごろに植樹した修景林で、東側には嘗ては菖蒲田であった湿地が広がっています。大きく育った修景林の木々の季節の移ろいも楽しめるが、春、湿地越しに春霞のように咲く桃林の眺めは特にお奨めである。
ところで、もう4,5年年前であろうか、藤の花咲く5月初旬、新緑が清々しい昼下がり、トラエモン道で、母親と小学低学年くらいの姉と5,6歳くらいの弟の三人が少し距離を置いて私の前を歩いていた。すると、その弟がトラエモン道の地名碑を目ざとく見つけ、ト・ラ・エ・モ・ンと地名碑を呼んだ。その男の子は頭を傾げた。そして3人は顔を見合わせて笑った。地名碑・トラエモン道のドラエモンに反応した男の子のエピソードである。

「まくらが浜・逢わずの渡し」は、芝生広場からなだらかな傾斜で御所沼に面する弓状の砂浜のことで、その地名碑に「逢わずして行かば惜しけむ麻久良我の許我漕ぐ船の君も逢はぬかも」(あなたと逢わずに行ったら心残りだろう。まくらがの古河を漕ぐ渡り船であなたとお逢いできないものかなあ)と万葉歌が刻まれています。その万葉歌にみえる許我の枕詞をとって、その砂浜を「まくらが浜」と名付けたものです。
古河を詠った万葉歌はもう一首あるが、いずれも「古河の渡し」を舞台にした男女の恋慕の情を詠った相聞歌で、二人は逢うこともなく「まくらが浜」の「古河の渡し」を旅立ってしまったとの解釈で、この浜を「まくらが浜・逢わずの渡し」と命名したものです。
この万葉歌は古代の古河の若人たちの恋慕の情に燃える体臭を感じ取ることが出来る秀歌であるが、その背景には、渡来人の当時の最先端の韓梶を装備した舟が発着し、諸国から人が相集まり、働き、いこい、そして去りゆく古代古河の様子が詠われているとも言えます。既に河川交通の要衝であったそんな「古河の渡し」に思いを馳せた地名碑でもあります。

「筑波見の丘」については、地名碑に「この丘の頂に立つと、天神橋の裏に、筑波山を望むことができる。」とその由来が刻まれています。
「筑波見の丘」は立崎野の西側に築かれた低い丘で、この丘からは、芝生広場、公方様の森、馬蹄形の御所沼の姿、駒ケ崎の森、新久田の森などが見渡せます。そして、筑波山は、公園の木々がまだ小さかった頃は季節に関係なく見えたものですが、今は、木々も大きくなり、葉を落とした冬枯れ時に、天神橋の斜張橋の支柱の右脇にその姿がかろうじて現します。
古河市民にとって、筑波山は、最も親しみのある山で、江戸時代には、古河城に涼み櫓より望む筑波山が桃林超しに象徴的に描かれました。古河甚句には「西に富士山東をみれば夫婦姿の筑波の嶺よ」と、また中村真一郎作詞の古河一中の校歌には「千年の歴史を映し遠く光る筑波の空」とうたわれるなど、市内の校歌にも数多く登場するふるさと古河には欠かせない山なのです。古河から望むのびやかな尾根の美しい姿の筑波山には、万葉集に最も多く詠われた山で、枕詞を持つ古河との悠久の時間のつながりを無意識のうちにも感じます。そんな時空を超えて繋がるふるさとの山を望むために築かれたのが「筑波見の丘」なのです。

天神松については、その地名碑の裏面に「昔、古城跡の天神社に一本松あり、沼へ枝を張る。人々これを尊んで天神松と称す。この故事にならって松を植える。」とその由来が刻まれています。
江戸時代、小出重固が著わした古河の歴史書「古河志」によると、公方様の森は十念寺の境内地であり、住職の話として、境内南方に 天神松と言う古木あり、昔 氏姫が御所を住居にしていたころは、殊に 賞愛せられし由、とあります。
天神松について、その場所がはっきりとしているわけではありませんが、鷹見泉石の鴻巣村絵地図に樹形をも描写したかのような天神松が記載されているので、その絵地図を参考に、公方様の森の天神橋の橋詰の北側に天神松を植え、銘木の遺徳を蘇らせんとしたものです。

胞衣松については、その地名碑の裏面に「昔、古城跡の天神に胞衣の松ありしとか。人々はこれを敬って赤子の成長を祈願す。平成七年、松の苗を下す。銘木の遺徳ここに蘇らんとす。」その由来が地名碑に刻まれています。
江戸時代、小出重固の著わした古河の歴史書「古河志」には、十念寺の裏山の南西に老松の大木が2本あり、一本は沼の岸にあり、もう一本は三、四間隔てた草むらの中にある。だが、胞衣松とのことだけは承知しているが、その来歴を知る者はいない。ただ考えられることは、五代古河公方義氏の子・氏姫と喜連川頼氏との子・義親も孫の尊信も共にこの地で生まれているので、きっとこの両公の胞衣を埋め、その印に松の木を植えたということであろう。と記述があります。
胞衣松のあった場所がはっきりとしているわけではないが、鷹見泉石の鴻巣村絵地図に樹形をも描写したかのような胞衣松が記載されているので、その絵地図を参考に、公方様の森の天神橋の橋詰の南側に胞衣松を植え「銘木の遺徳を蘇らん」としたものです。

「御所の梅林」については、地名碑に「鴻巣の野 御所にいたってにわかに傾き沼に落ちんとす。梅の林これを掩う。よって名づく。」とその名の由来が刻まれています。
この場所は、鎌倉公方足利成氏氏が1455年に古河に移座した地で、依頼175年間、古河公方やその子孫により使われてきた鴻巣御所の跡地である。小字名・古城跡として土地の記憶が刻まれています。従って御所の梅林の御所とは鴻巣御所のことです。南斜面で水はけも良く日あたり良好、森の木々で冬の厳しい季節風から守られ、風水に言う四神に守られたような土地です。
公園計画では、茅葺民家が2棟移築され、村の生活の風景を再現する場と位置付けられています。そのような特徴を生かすべく、季節風の厳しい2,3月に楽しめるもので、村の生活を支えるジツもあり、高貴な公方ゆかりの地に相応しい風格のある風景をつくるとの考えで茶畑や梅林がつくられました。
梅は、桃の花咲く前に来園者を楽しませ、甘い香りで人の心を和まし、古木になれば、その姿に風格が備わり、高貴な公方様とも重なり、さらに、梅は村の生活を実を着けジツを生みます。
そんな考えで植えられた梅も、ウメ輪紋ウイルスに感染し、平成24年度にすべて伐採されました。その後、梅は再植され、まだ幼木ですが、年齢を重ね古木となって風格のある風景になることを願っています。

「駒ケ崎の森」については、その地名碑に「この森の木下や闇深きこと、ふくろう棲みし往時の村はずれかくの如きか。旧村名を添えてこれを讃えん。」とその名の由来が刻まれています。
駒ケ崎とは、遣水柏翆著「古河通史」によると、岬状台地に馬を飼っていた地域であたっこところから生じた地名のことです。
駒ケ崎の森は、その岬状台地の先端部にあり、常緑樹と落葉樹の混合林の暗い森で、大径木の欅、樅、榧、樫、像など、大きく伸びたアズマネマサや、シラカシ、ヒサカキ、シュロなどの陰綬が密集して生えており、人を拒むような雰囲気があります。御所の森のように絶えず人の手が入っている里山特有の親しみやすい雑木材とは対照的な森です。それ故に、薄暗い森特有の生態系があり、鶯などの多くの小鳥たちの棲でもあり、日陰の湿った場所で生息可能なゴミムシ類など生物多様性にとっても貴重な環境が保たれています。
また、古河公方公園の地形上の特徴であるが、芝生広場から南を眺めると、舌状台地の御所の森、駒ケ崎の森、新久田の森が雁行型に連なり、公園の風景にダイナミックな遠近感を演出しています。その意味で駒ケ崎の森は古河公方公園の風景を形づくる存在でもあります。

淨円坊の池については、その地名碑に「旧小字名浄円坊によって名づけた」とその由来が刻まれています。
淨円坊の池は、開園当初、芝生広場として整備されていたが、もとは沼地で、そのような形状の特徴からいつも湿っていました。、芝付きも悪く、使い勝手の悪い広場でした。そこで、平成9年に、その広場を池に改修したのです。その池の水は湧き水でもあるが、主に、中山の小川からの分流水が使われています。
淨円坊の池には、冬、多くの水鳥が群れ、夏には水連が花をつけ、八橋を模した枕木の橋が駈けられています。特に、桃祭りの頃は、多くの花見客が、この橋を列をなして渡り、池の周辺は花見客の人気エリアとなっています。
ところで、淨円坊は、御所沼と繋がる谷戸状の沼地に付いた小字名ですが、その由来は不明です。
従って、勝手な推測ですが、まず、その谷戸状の沼地は、隣接する古河公方ゆかりの徳原院の境内地の一部で、寺の庭園の池として整備されていました。徳源院には崇敬される高僧が居り、その高僧の坊号が淨円坊でした。その後、寺は、無住寺、そして明治初期には廃寺となったが、その高僧の遺徳をたたえ、谷戸状の沼地の小字名になったのです。すると、広場を池に改修したことも歴史的必然性が生まれ、これは地霊の導きだったのだと得心できたのです。

「元屋敷の桃林」については、その地名碑に「旧字名「元屋敷」を中心に古くから古河観桃会で知られた桃林を復元した。」とその由来が刻まれています。
桃林については、江戸初期に、徳川幕府の要職にあった土井利勝が古河城主となった時に、古河領内で薪が不足していることを知り、薪不足の対策として、江戸市内の子供たちに桃の実を集めさせ古河に送り、野畑や農家の屋敷周りに、薪や食料にもなる桃を植えさせたのが古河桃林の起源と言われています。
その後も鴻巣周辺の村々に桃の木は植え継がれ、江戸後期には、古河藩士も春には家族で花見に出かけるなど行楽地となっていました。
明治末期には、古河実業協会により盛大に観桃会が催され、臨時列車がでるなど面内外に知られた桃の名所となっていました。その後大正期に発生した炭素病により、万を数えた桃も昭和初期には激減したとのことです。
なお、小字名「元屋敷」とは、遺水柏翆著「古河通史」によると、江戸初期に古街道にかわって日光街道が整備された。その際に鴻巣にあった足軽屋敷も原町に移転し旧屋敷の地名から鴻巣組と名乗ったのです。そしてその鴻巣の足軽屋敷の跡地が「元屋敷」として小字名になったとのことです。

「かわうそ橋」については、その地名碑に「川獺・絶滅したイタチ科の哺乳類。ときに人を騙すことが愛嬌あり。悲運の小獣を悼みその名称えれば水草の茂み微かに波立つ」とその由来が刻まれています。
ところで、かわうそ橋は新久田道の中ほどにあり、獺島に渡る橋で、特に、春、桜咲くころは、獺島は知る人ぞ知る桜の名所であります。
獺は古河にも生息していたものと思われます。それは、今は「けやき平」と言う住宅地になっているが、大正から昭和初期にかけて干拓されて消滅した沼を獺沼と呼んで、獺とか獺原などの小字名があることから獺が生息していたと言えます。さらに、御所沼でも獺沼と水路を通して繋がっていることから、その愛嬌ある姿を見ることができたと思っています。
いつごろまで生息していたかと言えば、昭和の初期には全国的に激減していることからして、恐らく、干拓にする獺沼の消滅に合わせて姿を消したものと思われる。愛嬌があり人を化かすと言われる獺は、河童伝説の原型とも言われており、かつては人間には身近な存在であった。地名碑の由来ではないが、水草が繁茂する豊かな沼となった御所沼に獺が愛嬌ある姿を時には見せてくれることを夢想するのである。

「芋ころがし坂」については、「人ぞ知る鴻巣のさつまいも畑ここにありき。道を築けば坂となって芋ころがらんとす。」とその土地の作物を民話風のおどけた地名としたと、公園の監修者である中村良夫東工大名誉教授の作成した「古河総合公園の地名碑一覧」が残されています。このような命名は、公園計画する際に、地元の古老から土地の記憶を丹念に聞き取りした成果でもあるのです。
芋ころがし坂の坂上から左手に桜と萩が並木上につながり、右手の畑は、今は、サツマイモ畑ではなく茶畑と梅林となっています。従って、春は、梅の花が咲き、次いで桜が絢爛と咲きます。また、立秋のころから、萩がこぼれるように咲き始め、秋の訪れを知らせてくれます。そして右手の茶畑は日本の農の風景の中で最も豪奢な幾何学的風景美を四季を通じて見せてくれます。それは修学院離宮にみられるような日本庭園の大刈込にも勝るとも劣らない美しさがあります。
ところで、鴻巣のさつま芋は、知る人ぞ知る産物で、うまいと評判で市場に出せば高値で取引される聞いたことがあります。ただし生産量が決して多くはないので、口にする機会は少ないようです。事実私は食したことがないので、焼き芋にして食べてみたいものです。

「神明前の大榎」については、地名碑に「旧小字名「神明前」」の大木なれば、かく称す。」とその由来が刻まれています。
神明前とは神明神社の南側と言う意味です。遺水柏翆著古河通史によると「神明神社は、牧野地の香取神社の東側にあった神社のことで、神明神社を囲繞する土地が小字名、神明北東、神明西、神明前となっている。ここの神明神社の創立年代は確かではないが、古河公方成氏が社殿を造営したのが始まりだと伝えられている。」とのこと。因みに、神明神社の神明とは、天地神明にかけての神仏の神ことであり、また天照大御神のことで太陽神として農耕神でもあります。
「神明前の大エノキ」は、中山台を季節風から守る屋敷林の様に生えてくる榎で、牧野地道の正面に聳えている双幹に見える一対の榎のことです。今は中山台の遊具エリアにあり、遊ぶ子らを見守る様に枝葉を茂らしています。2本の幹の目通りはそれぞれ3.4mと2.7mで、樹高は19.6m、双幹の隙間は最大40㎝、根は一体化しています。幹は割れ洞をつくり枝は縺れ融合し風雪に耐えた履歴が見えます。また見る方向にもよるが一木に見えます。人一人が通り抜けることのできる幹との隙間には、どういうわけか、その隙間をすり抜けたくなる衝動を覚えるのです。

「春草席」については、地名碑の裏面に、「少年易老学成難 一寸光陰不可軽 未覚池塘春草夢 階前梧桐巳秋声」と朱憙の七言絶句・偶成が刻まれています。詩の前半は、若者に刻苦勉励をすすめ、後半は、青春の夢を見果てぬ白髪の老人の心境を描いています。
この春草席は、御所沼南池の東岸に作られた橋のような休憩所と屋外展望デッキからなる斬新なデザインのフォーリーのことで、偶成の転句「未覚池塘春草夢」の「春草」から名付けたものです。また、モダンデザインと中国南宋の思想家・朱憙の漢詩と言う意外な取り合わせは、新たな意味世界をこの場所に生み出しています。
そして、結句「階前梧桐巳秋声」に呼応すべく、この春草席の傍らに桐を植えました。ただ、梧桐即ち青桐ではなく、白桐を植えたのです。古河一高校歌に「桃は咲き穂は伸び、桐の花薄紫に」と詠われていますが、古河はかつて桐下駄の産地で、桐畑が多く見られたこともあり、薄紫の花をつける白桐を植えたのです。
ところで、もうずいぶん前のことであるが爽やかな五月晴れの昼下がり、春草席の碑の傍らで青年が寝そべって真剣に読書する姿を目撃しました。それはまさに偶成の世界でした。水鶏坂を上がりながら、老境の身を思い、切ないような感傷にかられたことを鮮明に記憶しています。

有料施設のご利用案内

展示室・ステージのご利用案内

施設名 利用時間 利用料金
展示室 9:00-17:00 1120円/日
野外ステージ 9:00-13:00
13:00-17:00
2130円/4時間

※12/28 ~ 1/4 は休館です。
※桃まつり期間(前後準備を含む3/10~4/8※多少の前後あり)は使用できません。
※営利目的の利用は倍額となります。