立崎野
「立崎野」については、地名碑に「立崎は渡良瀬川大改修(大正時代)に滅びし古河城本丸と運命を共にした村名なり、この小さき言葉ここに遺して郷土史の大本を心に銘す」とその由来が刻まれています。
立崎は、古河城の南端に位置し、古河公方時代まではと公方祈願寺・徳星寺が併置していたと思われます。その後、幕藩時代は、立崎廓と頼政として整備され、頼政神社のほか、時代にもよるが、家臣の屋敷や長屋、米蔵などの他、頼政神社別当の屋敷がありました。明治になって廃城となり、立崎村となったが、半世紀も経ずして、渡良瀬川大改修により、立崎村は河川敷に取り込まれ消滅したのです。
その渡良瀬川大改修とは、古河城の主要部分を削り、蛇行する川に挟まれた伊賀袋を切り離して、河道を改修する工事で、あの足尾鉱毒事件が社会問題化して影響を与えた渡良瀬遊水地と一体の治水事業でした。その意味では、この地名碑は、治水事業の犠牲となって消滅した立崎村への鎮魂の碑でもあります。
立崎野は、今、御所沼の干拓史を伝える排水ポンプと水門が保存され、ヨシキリが囀る葦原となっています。江戸時代の古地図にも立崎の水際は葦原となっており、当時の姿もかくあんなりと思うのです。