徳源院趾参道
「徳源院趾参道」の地名碑については、裏面に「大正15年10月墓地整理記念」と古河町の3名が、側面に鴻巣村の2名の名前が刻まれています。なお、現在の碑の場所は、公園整備により、当初の場所より道に沿って約30m北に移っています。
徳源院は、臨済宗・鎌倉円覚寺末。永仙院、松月院とともに古河公方が開基した三カ院のひとつで、当初は第三代高基正室の法号「瑞雲院」と称し、次に第四代晴氏正室の「芳春院」、最後に第五代義氏の娘・氏姫の「徳源院」と変遷したとみられています。江戸時代後期は無住寺の状態が続き、明治初期には廃寺となったとあるが、明治16年の測量図には、まだ仏堂らしき建物が表記されています。大正末には墓地整理されて、古河公方関連史蹟として、昭和8年、茨城県指定文化財の指定を経て、現在は古河公方公園の中にあります。徳源院跡には、義氏の墓と言われる盛土、氏姫の墓と言われる小さな宝篋印塔、義親の大きな宝篋印塔と七地蔵を刻んだ石幢、そして無縫塔などが北側に十数基配置されています。
徳源院は、院号の変遷からしても分かるように、公方ゆかりの女性たちの霊の眠る処である。春、その徳源の周りは、一面に桃が咲き、そこに雅に着飾った高貴な女性たちの姿を重ねると公園の桃林が殊のほか華やいで見えてくるのです。