史蹟古河公方館址
「史蹟古河公方館址」については、その地名碑の裏面に「ここは古河公方足利成氏在城当時よりの別館、鴻之巣御所址にして東西に長き半島形をなし御所沼に突出し今なお前後二ケ所に空堀を存して当時の要害を忍ばしむ。五代公方義氏薨去の後息女氏女ここに住し寛永年中その孫尊信野州喜連川に移るに及び遂に廃城とはなれり。昭和8年7月18日茨城県知事より史蹟として指定せらる。昭和8年7月吉祥日茨城県古河史蹟保存協会 千賀覚次 識 永井益雄 書 石康 刀」と刻まれています。なお、「史蹟 古河公方館址」の刻字は、貴族院勅選議員の小久保喜七が揮毫したのです。
この史蹟は、古河公方に関して、徳源院跡と共に県指定史跡に指定された折に設置されたもので、古河では最初の県指定の史跡になります。当時は、御所沼干拓前であったので、古河公方館址の周囲は公方時代に近い形で御所沼が大きく広がり、空堀の跡も2ケ所その原型に近いかたちをとどめていました。
また、明治、大正、昭和という日本の近代史を駆け抜けた自由民権運動の政治家・小久保喜七が揮毫した刻字であり、学校教育や郷土史などの社会教育に貢献されたと言うことで旧古河最初の名誉市民となった千賀覚次氏による噀文と言うことでも意味深いものがあります。